きむ兄の今までの話番外編〜プライベート編〜

うちは母子家庭だ。
しかし、それに対して何の引け目も持っていない。
むしろ、母の事は尊敬しているし、離婚して良かったと思っているくらいだ。

父は仕事をしない人だった。
しないといっても、ずっと家にいるわけではなく、
長く続けられないタイプであった。
父がしていた仕事で思い出せるのは、
富士薬品の営業とパチンコ屋、最後は運送だったと思う。
それ以外の仕事もしていたと思うけど、今となってはもう思い出せない。
父が仕事をしない事に対して、仕事人間の超絶真面目な母にとってはストレスがあったのかもしれない。
自分も当時仕事をしない父をみては、仕事しろよ!と思っていた。
でも、実際自分が働いてみると、仕事というのはなかなかの苦痛である。
仕事を続けるというのはなかなか難しいものだとわかった。
社会人になると、当時の父の気持ちもなんとなく理解できるようになった。
仕事したくなーい、とよく思うのは父の遺伝子からか?

また、父の趣味はパチンコだった。
仕事もちゃんとせず、ギャンブルをしていた、しかも母のへそくりを使った事もあった。
こう書いてみると、自分の父親であるが、なかなかのクズっぷりである。
しかし、酒は飲まず暴力も振るわずで、性格もそこまで悪いやつではなかった、とフォローしておこう。

結婚してわかったのだが、夫婦とは難しいものである。
夫婦は二人三脚と同じで、上手くいっている時は、
いつまでも走り続けられるし、二人で走っているという達成感もあり、
一人で走るよりも楽しく思える。
しかし、本当に些細な事でバランスを崩すものだ。
一人がペースを早めようとしたり、ちょっとのよそ見をしているだけで、転びそうになる。
そして、一度転んでしまうと立ち上がるまで多くの困難を要し、
再度走りだしてもなかなか前のようには上手く走れなくなってしまう。

父と母の不仲は私が中学生になってからだったと思う。
それまではそれほど仲は悪くなかったと思う。
夜になるとけんかして、大声で言い合って、
聞こえるのが嫌で布団を深くかぶって
少しでも聞こえないようにしていた。
けんかする両親をみて常々、離婚すればいいのに、と思っていた。
そして、いつからか、父は家庭から姿を消した。
最初に家を離れた時は仕事で単身赴任になったと言っていた気がする。
まったくの音信不通となった。
もともと父の事は好きではなかったし、
私にとっては家庭にいない方が嬉しかった。
家庭にいない日が続き、それが普通となった。
子供の私はこれで良いと思っていた。

数ヶ月後、母が正式に父と離婚する事を決めた。
父が家族には内緒で借金をして借金取りが家に来たからか、
それとも、知らない女から数回家に電話が来たからか・・・。
理由は何でもよかった。
結婚している事実がデメリットに思えた。
しかし、父本人がいない場合、離婚届にサインが出来ず、
離婚が出来ないという事がわかり、
連絡の取れない父に捜索願を出す事となった。
警察の捜索は早いもので、1週間足らずで
父は東北にいることがわかり、弁護士を通じて離婚と慰謝料を請求することとなった。
親権については母から話があり、本人の希望で親を選べるということなので、
私は迷わず母を選んだ。
母を選んだ方が経済的に安定していると、子供ながらに考えていたのである。
また、母は私達を思って名字は変えないでいてくれた。
そのため、友人には離婚した事がばれずに済んだ。
もしあの時名字が変わっていたら、いじめの対象になる可能性が高い。
とても助かった。もしかしたら、母も周りに離婚した事を言いたくなかったのかもしれない。

ちなみに、慰謝料は100万円だった。
子供心に明らかに少ないと思った。
母が辛い思いをしてこんなものかと。
しかし、同時に働かない父からこんな大金が出てくるはずもないし、
金額は至極妥当に思えてきた。
100万円は分割払いで受け取っていた。
後で話を聞いたのだが、その100万円は祖母が払っていたらしい。
この話を聞いた時、ばあちゃん子だった私は、ばあちゃんになんか悪い事をしている気分になった。

そういえば、離婚する直前に家族全員でディズニーランドに連れて行ってもらった。
母の「最後だから」という言葉が今でも忘れられない。
最後のディズニーランドは楽しかった。
行くのは、生まれて2回目くらいだったと思う。
思いっきり楽しんだ後、夜にスペースマウンテンの横にあるピザ屋でみんなでピザを食べた。
もうあたりは真っ暗で、ディズニーランドをでたら、もう父と会うことは無い。最後だった。
親が離婚するという事は理解していたが、それについては大賛成だったけど、
実際離婚するとなるとなんとなく寂しくなった。
今でもディズニーにいって、スペースマウンテンの横を通るとあの時の事を思い出す。

それから、母は日中の仕事以外に、夜にも働きに出た。
それは私が高校生になった後だったと思う。
私の学費を稼ぐ為だ。
母は私に大学に進学する事を強く望んでいた。
もちろん、工専という選択肢もあったのだが、
私は工専というものがどういう所か、まったく理解しておらず、
今でこそ工専もありだと思うが、当時はまったく視野に入れていなかった。
薬学部進学への思いもあったのだと思う。
私は高校に進学した後は、とにかく勉強をした。
また、母が夜中、仕事から帰ってくるまで勉強しようと決めていた。
夜遅くまで家も静かで勉強も捗ったため、成績はぐんぐんのびていった。

この記事を書いた人

木村 浩一
医薬品学習研究所 代表
iPhoneアプリ「薬クイズ」「新薬クイズ」や「お薬かるた」「お薬クイズオンライン」など、薬学習コンテンツ多数開発!
詳しくはHP➡http://iyakuhingakusyu.net 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です