私が薬学生起業した理由⑤一番辛かった時期のこと。

↓過去の記事はこちら↓

私が薬学生起業をした理由

①生まれてから今日までざざっと
②母の乳癌発覚
③大学中退という決断
④職場復帰と再発と現実

 

PAK26_kumononakanohi20140209500
私が今までで一番辛かった時期。

それは母の開頭手術後から母が亡くなるまで。

 

開頭手術をしたあと。

何もかもが変わってしまったようでした。

 

脳腫瘍と一緒に

元気で知的な母の魂も取り去ってしまったようでした。

 

中身も見た目もどんどん変わって行きました。

 

夜、バイトから帰ると玄関に母がいて

私に向かって「どろぼう!!!」

叫ぶようになりました。

 

夜な夜な「頭が痛い」と大声を上げて眠らなくなりました。

 

家に引きこもるようになりました。

 

笑わなくなりました。

 

恐らく術語の後遺症でせん妄状態だったのでしょうか。

抑うつ状態だったのでしょうか。

 

何度も何度も何度も

夜中に頭が痛いと訴える母を車に乗せて

片道2時間かかる病院へ連れて行きました。

 

でも、病院でされた対応はひどいものでした。

 

「頭が痛いのは術後の筋緊張によるもの。」

「デパス飲めばよくなる。」

「飲んでも痛いのは妄想。」

 

 

 

 

 

周りに助けてくれる人はいませんでした。

もしかしたら誰かがいることに気づかなかったのかもしれません。

 

ただ言える事は

私にとって、病院で母を診てくれる医師や

話を聞いてくれる看護師さん達が

最後の砦でした。

 

その人達にも私達は見捨てられた。

そう感じました。

 

ある日の夜中の3時頃。

病院の駐車場。

鎮静剤で眠る母の顔を見ながら

自分の中の糸が切れてしまったのを感じました。

 

限界でした。

 

大事な母との闘病生活。

噛み合なくなった想い。

社会での孤立感。

医療への不振。

将来への不安。

母への不満。

親戚への不満。

あることないこと言いふらす近所の人達。

 

何よりも

誰よりも

尊敬していた母がどんどん姿を変えて行く。

 

あの時の私はすべてを受け入れる事ができませんでした。

 

私は家に帰らなくなりました。

 

母の看病を放棄してしまいました。

 

夜中にこっそり家に帰って

明け方家をでる。

そんな生活を送るようになりました。

この記事を書いた人

小嶋夕希子(コジゆき)
小嶋夕希子(コジゆき)濱庭球株式会社代表☆薬学5年生
☆国際医療福祉大学薬学部5年生。
☆濱庭球株式会社代表取締役。
☆横須賀出身の28歳

株・投信や不動産で学費・生活費を稼ぎながら現在に至ります。

夫との共通の趣味であるビーチテニスで学生起業し、学業との両立に四苦八苦しながら東京から栃木の大学に通っています。

将来は《薬剤師×食》で事業を起こしたい!と密かに企んでます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です